2008/05/10

広島城まで足をのばしました。




広島城まで足をのばしました。







毛利氏が中国地方、9カ国120万石の太守となり、戦国時代も落ち着きをみせはじめると、

山間部にあり、要塞としては抜群であった吉田郡山城より、

商業の中心地として、城下町をもった城郭を作る必要がでてきました。

そして今の地に平城の城郭を築きました。



関ヶ原の合戦後、福島正則が入城し、更に城および城下町の整備をすすめ、広島城を完成させました。

が、洪水で破損した修理を幕府の許可が不十分なまま行ったことから、異動。新たに浅野長晟(ながあきら)が和歌山からやってきます。以後は浅野家が版籍奉還まで約250年間治めました。



昭和6年には国宝にも指定された見事なお城でしたが、原爆で吹き飛んでしまいました。

現在あるのは昭和33年に鉄筋コンクリートで再建されたものだそうです。



広島城は日清戦争の時、様々な条件を満たしているとのことで、大本営が東京から移され、明治天皇も約7ヶ月滞在したそうです。



この鉄筋コンクリートの天守は、刀の展示が充実していて、外観もうつくしいのですが、

個人的には平成6年に木造で再建されたという比較的新しい、表御門からはじまる二の丸の辺りが気に入りました。






















6 件のコメント:

くすだま さんのコメント...

こんばんは

広島、あちこち行かれたのですねー。

私実家が広島です。

が、市内ではないのであまり地元とはいえないのですけど(^^;

小さいころですが、一通りは観光地?をまわりました。

宮島は、毎年台風にさらされるたびに

全壊してしまわないかドキドキします。

今行くと、風情があってホントにいいでしょうね。

倉敷も小さな町ですが、味がありますよね。



でも、広島と和歌山にはそんな関係があったなんて

初めて知りました。

なんだか不思議な縁を感じます。



紀州の語り部 さんのコメント...

あらためて思いますが、秀吉と第二次世界大戦でほんとに多くのものが壊されてしまいましたね。



和歌山城は、桑山時代、浅野時代、徳川時代にわけられます。

豊臣秀吉が弟秀長に和歌山城をつくらせましたが、秀長は和歌山城には入らず、桑山が城代としてきたのが最初です。その後、関が原の戦いで活躍した浅野幸長がはじめて殿様として和歌山城にきます。広島城のこの浅野家の一族でしょうね。

忠臣蔵の浅野たくみのかみに繋がる家系です。

紀州の語り部 さんのコメント...

OO:OOにブログ書くのが自分の中のひそかなこだわりなんでしょうね。

tiotio さんのコメント...

くすだまさま

そうですか、広島ですか。とってもいいところですね。

人はみんなさわやかだし、なんといっても美人が多かった。(ようなきがする)すっかり気に入ってしまいましたよ。

路面電車は市内均一150円だし、どこもかしこも入場料安いし。



そうなんですよ。過密スケジュールのため、小学校1年生のときからの友達をはじめ何人かいる広島在住の友人にも合うつもりがそんな暇ありませんでした。



宮島は地元の方も「台風が来るともう、大変なんですよ〜」と本当に大変そうに言ってました。



紀州の語り部さま

浅野長晟は浅野幸長の弟です。兄の幸長に嗣子が無かったため、幸長の死後は長晟が和歌山城主となりました。その長晟が広島へ行っちゃったあとは、徳川家康の十男、頼宣が55万5千石で入城し、以来御三家の紀州徳川家が始まったのですね。



壊れるものがあればこそ、残されたものの貴重さが際立ちますが、それにしても、黒城の和歌山城や、全盛期の和歌山城を見たかったですよね。



そうですね、いわれてみれば00:00に設定して公開することが多いですね。これからこだわってしまうかも。



紀州の語り部 さんのコメント...

浅野長晟の奥さんが家康の三女振姫さんで、前に私のブログで紹介しました和歌山の光恩寺に彼女のお墓があるのです。今は誰もおまいりに来ないらしいです。

tiotio さんのコメント...

それはそれは。